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インドネシアの華僑について

【華僑とは】

「外国に移住している中国人のこと」を指す言葉。外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある。

【スマランで出会った華僑の人たち】*ここに書くことは、個人的に出会った複数の華僑の人から、聞いた話しを元にしており、個人的主観が入っていることを前提に読んでください。

写真:スマランのサンポコン中国寺院。大航海時代にスマランに立ち寄った武将鄭和を記念して建てられた。

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インドネシア国内には、約1千万人の華僑が住んでいると言われており、私の住むスマランにも中華街があったり、華僑の方が住む高級住宅が並ぶエリアがある。

現在の20~30代の人が3世になるようで、彼らの祖父母がインドネシアに移住し、華僑同士で結婚し(基本的には別の人との結婚は親に反対されるらしい)2世からはインドネシアで生まれ育っている人たち。インドネシア国籍を持ち、3世は日常的にインドネシア語で会話し、中国語は出来る人の方が少ないようだ。

写真:スマランの中華街。この門とエリア内に点在する中国寺院以外は、中華街の赤や金といった色合いの煌びやかな雰囲気は見られない。

【ざっくりとした歴史的背景】

初代大統領・スカルト政権下(1945年~1966年)、1965年に『9月30日事件』による華僑の大量虐殺が起こる。のちの、スハルト政権(1968年~1998年)の時代にも反華僑の動きが強まり、華僑2世はインドネシアに住み続けるのであれば、インドネシアの名前を名乗るように強要されたという。この時期、マレーシアやシンガポールなどの近隣アジア諸国に退避していた華僑も多かったそうだ。第4代大統領に就任したアブドゥルラフマン・ワヒド(1999年~2001年)は、スハルト政権下で長く禁止されてきた共産主義の解禁も提言し、この時代から華僑の権利も徐々に回復していったという。

スマランの中華街は装飾が少なく、簡素で殺風景なのは、このような歴史的な背景が影響しているという。長い間差別され、ひっそりと暮らしてきたのであろう。それでもビジネスに長けてお金持ちが多いのは世界の華僑と変わりないのではと思う。一族の誰かが成功したら、利益を分配したり、教育にお金をかけたり、コミュニティを大事にしたり、ビジネスは子どもに代々引き継いだり、資産は不動産で持っていたり…華僑の人の考え方はいろいろと勉強になります。私が自然と出会ったスマランの華僑の人は、アパートのオーナーだったり、アパートの住人、教会の人達だったり。みんな自分でビジネスをしているので、私の職場やお役所ではお目にかかれないけど、身近にたくさんいます。私はまだ顔だけでは判断つかないですが・・・。

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写真:スマランの中華街で毎年行われる旧正月のお祭り

興味があれば下記もどうぞ。

*Wikipedia各ページより一部抜粋:華僑インドネシアの大統領一覧9月30日事件

【中国から東南アジアへ 大航海時代】

中国明代には、海禁策を発布し民衆による事実上の海上利用制限政策をとったが、大航海時代到来によるアジア地域の変動や明代末の混乱等から、明の移民船と記録に残るほど東南アジア各地への移民が全盛を極めたとされる。乾隆5年(1740年)10月、中華人移民に友好政策をとっていたオランダ統治下のジャワ(現インドネシア)において、明末混乱期から続々と流入し増加した華僑と現地住民及び政府との摩擦が発生、華僑による暴動が発生し、動乱鎮圧のための華僑虐殺などが発生、友好政策下のオランダ総督府との間に遺恨を残すなどの象徴的な事件があった。

【9月30日事件】9月30日事件とは、1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデターである。

【背景】インドネシア建国の父となったスカルノは、オランダの植民地時代の遺産の完全否定を進め、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華人を差別したとされる。

【華僑の大量虐殺】9月30日事件が起こり、同年10月16日、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルト(次期第二代大統領)は、スカルノから事態の収拾に当たるための権限を与えられ、速やかにこれを鎮圧した。スカルノから治安秩序回復の全権委任を得たスハルトの主導のもと、事件にかかわった共産党の指導者・一般党員・共産党との関係を疑われた一般住民を大虐殺し、党組織を物理的に解体した。約50万の人々、特に40万人の華僑に対する集団虐殺が起き、20世紀最大の虐殺の一つとも言われている。(華語教育や文化活動も同時に禁止された)。50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は、今日でも正確には把握されていないが、こうした残虐な大虐殺は、1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたと見られる。

【スカルトの失脚】9月30日事件の後、陸軍、イスラーム系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができず同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし(させられ)、その実権をスハルトに譲った。

【スハルト第二大統領の誕生】1968年3月スハルト大統領就任後、スカルノとは反対の親米・親マレーシア・反共(=反中華人民共和国、反ソビエト連邦)路線に外交方針を転換した。


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